CBNの暮らしの便利帳はメンバーの村東みやこさんが編集責任者として制作されました。村東さんはNew Zealand Classicの代表として日本からの車の輸入、またクラッシックカーの取引、輸出入などをされています。
今回のブログは、ご本人がニュージーランドに来て起業、現在に至るまでの経緯、またCBNとのかかわりや便利帳が出来上がるまでの話を、インタビュー形式で3回に分けてお届けします。
1回目はニュージーランドに来て会社を設立、その後独立するまでを伺いました。
ニュージーランド来たきっかけ
新田: 今日はありがとうございます、早速ですが、ニュージーランドに来たのはいつ?
村東: 2003年に日本の会社のニュージーランド支店を立ち上げるっていう名目で、クライストチャーチにワーホリで来たんです。
新田: ワーホリで一年かけて会社を作り上げていったんだ。
村東: 作り上げたっていうほどではないですけど・・・
新田: 慣れない海外の土地で会社を作るって意外と大変だったんじゃない?
村東: もうめちゃくちゃ大変でした、なぜってなにも分からないから。もともと2003年の最初の半年は学校に行っていたんですよ。実は英語が全くできなかったから、それじゃちょっとだめでしょうという話で最初の半年、語学学校へ行って。でそこからワーホリに切り替えて会社を立ち上げたんです。
新田: よく会社の社長さんも待ってくれたねえ。
村東: そうでしょう、そうなんですよ。(笑)
新田: やっぱり出会いだね。半年語学学校で勉強して、ペラペラにはならないと思うけど、多少英語に慣れたでしょう?
村東: その半年で凄い英語が伸びたと思います。一人しかいないから、もうやるしかないって感じで、それこそもう無我夢中。それで単なる登録みたいな事は、日本語が多少わかってくれる会計士さんとかをつかまえて、会社は作ったんです。
新田: なるほど、日本語がわかる人を捕まえて色々頼んだんだ、でも日本語が分かる会計士がいるってどうやって知ったの?
村東: うーん、どうだったかなあ・・・多分、雑誌とか日本人会とか口コミとかなんかそういうつながりだったと思います。
ネットワークを広げる。
新田: 学校に行っている間とか、ワーホリの間にネットワークを少しずつ広げてっていった?
村東: 実は、ワーホリで来た時、本当に「どうしよう・・・」と思って街を歩いていたんです、取りあえずカセドラルの近くを。そうしたらKIWIのおじさんに声をかけられたんです。もしかしたら知っているかもしれないけどMさんっていう日本人と見れば声をかけるおじさんがいたんですね、あの当時あの辺に。
新田: 何している人?
村東: その当時、いろんな仕事をされていて、今でもあるか分かりませんが、ニュージーランドの人がやっている日本との交流協会みたいな感じの団体があって、そこの副理事長していたんです、その方が。それで日本人が好きみたいな感じで声をかけられたんです。
新田: はい。
村東: それで、そんなに日本人が好きで日本の話をしたいっていうなら、先に「私に家を見つけて下さい」って言ったんです。(笑) そしたらSさんっていう方を紹介されて、
新田: 笑(Sさんはたまたま二人の共通の知り合い。)
村東: 当時Sさんの家の裏に貸し出しをしているフラットがあって、とりあえずそこに入って私のワーホリ生活がスタートしたんです。それでみんなでお茶飲みましたっていう話ですけど。(笑)
新田: 相手によっては声をかけられてみるものだなあ。(笑)
村東: そうそう。(笑) ホントそれにつきますよ。それからSさん宅で飲み会をするようになって、いろんな日本人とそこで知り合ったんですよね。多分、その延長で日本語が分かる会計士さんなんかの情報を知ったんじゃないかなあ。
新田: ちょっと嫌な話だけど、大きな街で日本語が話せる人と知り合って、騙された、ぼったくりにあったとか聞くことがあるけど、いつもそういう訳ではないよね。特にクライストチャーチはそんな話は聞かないし、小さいからすぐ話がつたわっちゃうし。
村東: そうですね。やっぱりその当時の私は英語もままならないし、右も左もわからないし、良くも悪くも藁をもつかむじゃないけど、もう必死。日本語が話せて、何か知っていたらもう飛びつく位の勢いだったと思います。
新田: そうか、ガツガツというと言葉がわるいけど・・・
村東: 「ガツガツ!」と言っていいと思います。(笑)
新田: ハングリーというか、とにかく何とかしよう、前に行くしかないってかんじだね。
村東: そうなんです、若かったし。(笑)今なら「絶対しないよね」っていう。(笑)
会社を立ち上げてからの事。
新田: 会社を設立して、「ハイいつでも車を輸入」出来る訳ではないよね?
村東: 私は輸入、輸出の仕方は前の会社でやっていたので、その辺りは日本ではどんな感じかっていうのは分かっていたんです。ただニュージーランド側の手続きはやっぱりわからないので、車屋さんとかいろいろな機関に飛び込んで聞いてっていう感じで・・・
新田: それで会社を作って最初の自動車が到着したのっていつなの?
村東: はい、会社作ってすぐでしたよ、もう三カ月以内にすぐ見たいな感じで90台。
新田: 90台!
村東: はい、その社長が送ってきたんですよ、私一人だったのに90台。(笑)
新田: 売れたの?
村東: 売りました。(笑) 売れたっていうより、もう無理やり売りました、はい。(笑)
最初は利益もなくて、取りあえずそれでお客さんのネットワークを掴もうっていう感じで。もう利益云々じゃなかったですね、そこは。それでも、めちゃくちゃ大変ですよ、(語気を強めて)大変でしたね。本当に大変でした、もう泣きそうになりました。
新田: そうだと思うよ、だって若い女性が一人、車の業界にね。
村東: そうですよー。ただそれで車屋さんの中では有名になったんです、良くも悪くも。女の子、それも日本人の女の子が一人で百台も持っているということで。
それでいろんな人が訪ねて来たんです。
新田: ちょっと冷やかしも含めて、こいつ何やっているんだろ、みたいな感じ?
村東: そうなんですよ、「どんな人がやってるの?」見たいな感じで。
新田: なるほど。起業する上で、どんな意味でも目立った方が、よかったんだね。
村東: 良かったと思います。普通に車をやってるところにプラスアルファで、男の世界にたまたま日本人の女性ということで話題になったんです。ちょっと珍しいっていうか、そう言うのもよかったかもしれないですね。
そして独立。
新田: 何年ぐらい支店としてやっていたの?
村東: 支店としては3-4年くらいかな。そして、そこから独立したって感じで。ビザや永住権もその会社、日本の社長が持っている会社がサポートする形で取れたんです。その当時は取りやすかったですし。
新田: そこは少しラッキーだったかもね。それでいろいろな事がうまく転がっていったんだ。それで3-4年して、その会社をやめて自分一人でやろうと?
村東: そうなんです、元の会社が中古車自体をもうやめるっていう事になって。海外に車を出すのをやめよう、日本国内だけにしようとなったんです。それで「日本に帰ってくる?」っていう話になって、「いや帰りたくない」と言うことで、このまま独立しますという流れに。
新田: 帰りたくないっていうのは何か訳があったの?
村東: ニュージーランドが良かったですよね、やっぱり。それに英語もまだ話せてないし、終わってない、自分の中で完結していない。それとこれまで構築したお客さんのネットワークを、自分で作り上げたここまでの物を、捨てて帰るのが嫌だったんです。
新田: せっかく自分の努力で作り上げてきた繋がりをそう簡単に捨てて帰るのはいやだと。
村東: ちょっとね、その時は余りに、勿体いなさ過ぎるっていうか。それで独立してそこからずっと何とか今まで来ています。
新田: その前の会社ともつながりは?
村東: 実はつながりはあります、そこが私の仕入れ先になったりします。今でもネットワークとして繋がっていて、何かあったら一緒に仕事をしたり、車だけに関わらずいろんな仕事をしています。
村東さんが編集責任者として制作した暮らしの便利帳は下からダウンロード